屋形船の歴史
平安時代に法輪寺道晶僧師が架橋した渡月橋は、今より上流約300mの場所にありました。その後、江戸時代に保津川を開削した角倉了以が現在の位置に渡月橋を移したといわれています。この渡月橋の下を流れる川の名が「大堰川」です。
嵐山大堰川の屋形船は西暦805年頃から貴族の遊興の一つとされており、「三舟の才」の逸話で有名な藤原道長も船上での詩、歌、管弦等を堪能したといわれています。現在は嵐山の夏の風物詩として多くの方に親しまれている嵐山鵜飼も、当時は公家の遊びとして行われていました。
平安時代に公家の遊びとして運航されていた屋形船も次第に一般に親しまれるようになり、明治45年(1912年)には、当時の船頭が嵐山通船を立ち上げました。現在は船乗り場から1km上流までを遊覧するコースで運航していますが、当時はさらに上流の清滝川との合流地点付近「保津峡」までロープを使って人力で舟を引き上げて、保津峡から嵐山まで川を下る「保津峡下り」も行われていたそうです。戦後まもなく船頭が減少したことで保津峡下りは中止されましたが、エンジンのない屋形船を竹竿一本で自由自在に動かす操船技術は今でも船頭によって継承されています。屋形船にご乗船の際は、船頭の竿捌きにもご注目下さい。